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私の頭の中で考える愛とは、対象となる人を自分より大切にすることである。
でも、世の中では、誰もが「愛し合う」という言葉を使って愛とは関係のないセックスを重ね、
恋愛相手を頻繁に変え、不倫が横行している。
私にとって大切な人が頻繁に変わることなどありえない。
私の定義が間違っているのか、それとも愛は妄想なのだろうか?
愛だけじゃない、男気と呼ばれる誰かのために利害を超えて動く人間も最近少ないように感じる。
部下を守るために上司と喧嘩する中間管理職なんて話、聴かなくなったような気がする。
大阪出身の私の頭の中には、「おっとこまえやなぁ〜」という大阪弁が浮かぶ。
この言葉は、見た目をさす言葉ではなく、行動が男気にあふれ、粋な計らいができる人を、
ストレートにでは照れくさいので少し茶化しながら褒める言葉である。
人を愛するということも、男気も、自分の欲望を捨てることが根幹にある。
言い換えれば、自分を律することができないものには、愛も男気もないのである。
最近、自分を律することができる人が少なくなっているような気がする。
仕事場で、働きもせず、遊んでばかりいる人、いるよね。
忙しい、忙しいといいながら、きっかり9時5時に帰る人いるよね。
忙しいというのは、24時間働いている人間しかいっちゃいけないような気がする。
簡単に、忙しくもない人が、忙しいというのは、美学がないとも思う。
美学も、自分の欲望を押さえ込み、ガマンするから実現できるものだしね。
でも、愛には我慢が必要で、美学はガマンから生まれるのだということを、
理解している人が確実に減っている。
私はね、言葉の乱れに原因があるように感じています。
愛ではないものを愛といったり、80%の理解で100%理解しているつもりの人たちが、
世の中を乱しているような気がするのです。
愛することが上手と、愛することが得意という言葉の違いがわかりますか?
得意って、主観なんです。
つまり自分の判断基準なんです。
自分は愛することが上手だなぁって思い込んだら、得意って言っても許されるんです。
でも、上手は客観なんです。
あの人は愛するのが上手だなって認めないと、上手っていってはいけないものなのです。
この言葉の意味の違いが理解できていなくて、
自分勝手な価値判断で自分の価値や、主張をあたかも、正当性があるかのごとく、
行動する人が増えてきたことが原因だとおもいます。
人間は弱い生き物です。
自分の価値判断が正しいと思えば、自分を甘やかすことに躊躇しなくなります。
当然、ガマンなんてしない社会になっていくのではないでしょうか?
すると、愛も、男気も、美学もすたれていくのです。